闘病日記 平成16年7月〜8月

平成16年7月4日(火)
昨日は37度7分の熱を出す。今日も7度3分の微熱。
酸素飽和度は昨日が99と良好だが、今日は少し苦しそうな気が。今日の血圧は106-67。
再び肺炎か、それとも腸の炎症か。栄養はすべて胃婁からとなっており、
リハビリの天野さん、村上さんもまた来て貰ってはいるものの、どうも調子が下り坂の気がする。
肺炎を1ヶ月がかりで直して、再びでは危険だ。単純な体力低下であれば仕方がないのだが、少々心配。
昨日の釣りも今日の囲碁も眠ってばかりであまり見ていない。今日から大相撲名古屋場所が始まる。
テレビを点けたままで病院を出るが、果たして見ていただろうか。

 

 

 

平成16年7月7日(水)
医師面談のためNT病院へ。櫻田医師を想定していたが、応対は西条部長。
しかもごく短時間にナースステーションでの面談。
特に目新しい情報はなく、体力がかなり落ちており、いつ急変するか分からないと、過去の発言そのまま。
こちらの問いかけに、先週から微熱が続いているが、肺炎の特徴的な兆候は今のところないとのこと。
腹の動きは相変わらず悪く、やはり何かあるとの認識だが、これが直接現状の原因ではないという。
やはり何度も肺炎を繰り返し、すっかり体力が落ちてしまったと言うことなのか。
最近の無反応な状態は微熱のせいではないかと思うのだが・・・。
ディスカッションをするまでもなく面談は終了。
せっかく仕事を切り上げて出向いたのに不満足な面談だった。
親父は何の反応もなく、眠っていることが多い。
ただ、たまに目を開けていることもあり、人の顔を目で追ってはいる。
大相撲中継を見せたが、2,3番をうつろな目で眺めただけ。
逆に6時からのニュースはしばらく見入っていた。
帰る旨告げても今日は反応なし。7時前病院を出る。

 

 

 

平成16年7月10日(土)
相変わらず無反応。が、大相撲の中継を見せると居眠りながらも結構見ている。
朝方はやはり熱があったよう。水枕をしている。
やや息苦しそうにしていたのが気になる。

 

 

 

平成16年7月11日(日)
親父、テレビの囲碁も祇園祭中継にも全く反応せず。
たまに目を開くものの、虚ろ、見えていないような感じだ。
人の顔を目で追うものの、家族を理解しているかどうか。
看護婦の堀田さんの問いかけにも反応せず。
体温36度8分、酸素飽和度98だが、血圧は88-65と低い。
風前の灯火なのか。今一度持ち直す機会はないのか。
肺炎も起こさず安定していさえすれば碁を見たり釣りを見たりも出来るのだが・・・。
4時前病院を後にする。病院支払いを済ます。

 

 

 

平成16年7月18日(日)
昨日は会議のため自分は欠席。今日は11時過ぎに揃って出発する。
高速道路は連休のためか渋滞。NT病院へは12時半には到着。
親父は先週よりはしっかりした様子で、NHK教育テレビ「お好み囲碁対局」を見ている。
その後も高校野球県予選の試合を見ていたり、何度か問いかけに頷くことも。
が、3時過ぎ熱を計るとまたも微熱が。
再び眠りだし、千秋楽は見られそうもない状態に。
今日でNT病院入院1周年。
長かったのか、短かったのか、どちらとも言える不思議な年月だ。
自宅とKK病院との1年半に比較して、肺炎や腸閉塞、尿路感染、敗血症と厳しい1年であったことは確かだ。
この後どれくらい生きられるのか。とりあえず目標の1年は達成できた。
次は11月、気管切開後の1年か。

 

 

 

平成16年7月19日(火)海の日
お袋と由佳里を休ませ、一人でNT病院へ向かう。
看護婦の話では今日は熱もなく、午前中は元気そうだったとのこと。
3時に部屋へ入った時はやはり眠っていた。ラジカセで田端義男を聞かせる。
それでもたまに目を開けている。いくつかの問いかけには頷いて答えた。
4時半、少し早めに帰る。

 

 

 

平成16年7月24日(土)
親父、眠ったまま全く反応せず。
たまに目は開くものの、分かっているとは思えない状態。
爪を切り、眉と鼻毛を整えてやる。
リハビリの村上さんと旧館で偶然出会う。
しばらく立ち話。優しい子だね。

 

 

 

平成16年7月25日(日)
親父、呼びかけに全く反応せず。
それでも、少しだけ高校野球予選を見ていた様子だが、そのうち眠り出す。
痰が結構多く、唾液が落ちているものだけではなさそう。
気管からの吸飲で黄色い痰が出ている。
熱は37度3分と微熱が。酸素飽和度は98。
結局一度も反応しないまま、帰宅。

 

 

 

平成16年8月1日(日)
昨日は37度の微熱で、血圧も88-59で低かった。
今日は35度9分、92-64とやや戻った感じ。
しかし、反応はほとんど無く、眠っている。
ようやく最後の10分ほど囲碁の番組を眺めていたが、理解できていたかどうかは不明。
何度か家族の問いかけに反応したようでもあり、しなかったようにも見えた。
頷く、瞬きをするなど、それすらもALSのせいで困難になってしまったか。
あるいは度重なる肺炎などの影響で体力の低下と共に意識レベルも上がらなくなったのか。
端から見ていたのでは計り知れない。いつまで生きのびるのか。
神のみぞ知るのかも知れないが、一時でも長く生きながらえて欲しい。
今まで一度も弱音は吐いていないのだから。

 

 

 

平成16年8月3日(火)
1年ぶりのお袋の大腸検診はポリープが見つかり、来週切除することに。
UCはもちろんそのまま存続しているようで、今回レントゲン検診はあまり意味がなかった感じ。
来週再びの内視鏡検査でポリープおよびUCの状態も明らかになるだろう。
幸い来週は夏休みゆえ、入院を余儀なくされても対応しやすい。
4時前、NT病院から自宅に電話。お袋が携帯へ電話してくる。
看護師の堀田さんからで、今朝の採血で再び貧血傾向が出ているとのこと。
6.0ということらしい。輸血をするかどうかの問い合わせ。
すぐに電話を入れ、輸血の承諾をする。2回目となる。先週末までの状態、貧血に由来するのか。
いずれにせよ、延命措置ではあるが、親父が死にたいと思っているわけはなく、出来る限り延命を手助けしていく。
こういう主旨は櫻田医師、西条医師にも伝えてある。

 

 

 

平成16年8月4日(水)
会社を早引けしてNT病院へ。6時半頃到着。
親父は目覚めてはいるものの、虚ろな感じ。果たして自分が理解できたかどうか。
ラジオがついている、ありがたいことではあるけど、耳が遠くて聞こえまい。
今や、どんな世界に落ち込んでいるのか。
輸血の承諾書のサイン、判を忘れる。
堀田さんによれば、ヘモグロビンが6.7あたりから6.0にまで落ちているとのこと。
明日から2日間で4単位の成分輸血をする予定とのことだった。
4月以来の輸血だが、やはりどこかで出血していると思われる。
大腸癌?潜血検査も実施するようだ。
もし直せるのなら、アメリカでもどこでも連れて行ってやるのに。何も出来ない。

 

 

 

平成16年8月7日(土)
水曜日以来の見舞いとなった。
輸血はすでに終了、堀田さんによれば貧血の状態は8まで快復したそう。
当面の危機は去ったものの、このまま維持できるかどうかは分からない。
前回同様安定してくれればと思う。
相変わらず意識レベルは低く、家族のことを理解しているのかどうか、それすらも不明。
たまに目を開けるが虚ろ。
特定疾患受給者証継続申請用診断書を受け取る。これが使えるようであって欲しい。

 

 

 

平成16年8月10日(火)
昨日は休みを貰い、今日は揃ってNT病院へ行く。
親父は相変わらず無反応だ。目さえ動かない。昏睡状態に近いんじゃないかとも思う。
体温、脈拍、血圧は正常なようで、特に薬も使用していない模様。
胃婁からは200CCの流動食を流し、通じもあるらしい。
医者と話しもしたいが、一方でどうせたいした話もないだろうとも。
このままずっと行くのか、その公算が大きい。
ALSの進行も止まってはいないはずなので、その影響もあるだろう。
頷くなどの動きどころか、目蓋の開け閉めすら覚束ないのかも知れない。薄目を開けていて瞬きをしない。
先月の入院費を支払う。来月も払えるだろうか。まずは11月をめざして。
それにしても何か反応をしてくれないものだろうか。
めまいの発作からお袋の元気がない。
食も細く、夏バテ、暑気あたり、熱中症なども考えられるが、念のためMRIを撮った。
その結果は明日。木曜日には内視鏡も待っており、体力が心配。そこへ仕事上のトラブル。

 

 

 

平成16年8月11日(水)
夏休み最中の今日は仕事上のトラブルから客への謝罪へ朝から出勤する。
お袋のMRI結果が出る日だが、由佳里に任せることに。今回のクレーム騒ぎ、かなり影響が大きい。
一方MRIの結果は異常なしとのこと、ホッとする。
謝罪会見を終え、3時半NT病院へ向かうことに。
明日はお袋の内視鏡検査の日で入院が予定されているため、週末まで親父を見舞うことは出来ないかも知れないからだ。
到着は6時少し前。夜の胃婁が始まっており、右腹を下に寝かされている。
返事はない。足の指など摘んだり、さすったりすると一瞬目を開くが焦点は定まらず。
何も見てはいないのか。舌が右側に寄っており、舌にも力がなくなってしまったことが分かる。
ちょうど堀田奈保子さんがナースセンターにいたので櫻田医師との面談を申し出るが、
すでに別の病棟へ移っており、こちらには来ないという。
かわりに現在の状態を説明してくださった。
今朝は38度代の熱があったが、昼から下がったとのこと。また、今日は下血があったそうだ。
やはり大腸癌の可能性が高いが、これはどうしようもない。
今日の採血で貧血はそれでも8をキープしている。
ただ、腎機能があがっており、ここ数日で一気に100を超えてしまったとのこと。
カリウム値も上がっており、今日から点滴が入ったとのこと。
浮腫をブラッシュアップするための薬。同時にカリウムを下げる薬も入る。かなり厳しい。
11月を当面目標にと思っているが、高すぎる目標かも知れない。
幸い肺炎はなさそうだが、敗血症・多臓器不全など益々危険が高まった感じがする。
明日の内視鏡を前にお袋には詳しい説明を省く。

 

 

 

平成16年8月13日(金)快晴
朝10時頃、NT病院より電話有り。自分は夢うつつで電話が鳴り出すのを聞いていた。
その後もう一度電話。
いずれもお袋が出たはずだが、呼びに来ず、病院からではなかったとホッと思ったが、やはり病院から。
親父の状態が悪く、医師から説明があるので来てくれないかとのこと。
3時と約束した後、4時に訂正したのが2回目の電話だった。ついに来るべき時が来たのか・・・。
鬱々とした気持ちで午前中を過ごす。
水曜日に臨時出勤後見舞った様子でも、大変危ない印象を受けてはいた。
3時少し前、病院到着。親父はやはり眠り続けていた。
目は薄く開くものの、見えている様子はない。ただ眠り続けていた。
3時過ぎ、予定より早く西条医師との面談。
身体全体の状態が非常に落ち込んでおり、危険だということ。消化管より出血がある。
これが貧血の原因であり、恐らくは大腸癌だとのこと。
直接はこの癌が元で状態が悪くなっているということだった。末期癌。
腎臓機能も悪く、癌を特定していないことから、ALSによる多臓器不全ということになるのかもしれない。
西条医師の見立てでは数日から1週間、10日くらいが限界とのこと。
インフォームドコンセント用紙では1~2週間となっていた。
今後貧血がひどくなった際には更なる輸血を承諾。心臓停止の場合は30分の心臓マッサージを。
血圧低下の場合は昇圧剤を投与することを約束。
自宅にいるお袋が急を聞いて間に合うかどうかが、やっとか。
もっともNT病院入院の時点で臨終には間に合わないのは覚悟の上。
眠り続ける親父の脇に夕方までついているが、堀田奈保子看護師が長くついて話をしてくれる。
親父の闘病生活やら、家族の苦労やら。堀田さんも難病患者を診るのは初めてだったとか。
お袋思わず涙をこぼす。結局5時前から5時半まで居てくれて、我々は帰路へ。
いよいよ長かった闘病生活も終了となるのか。
親父も疲れたことだろうが、もう一踏ん張り頑張って欲しい。
医者の言う通りに事が運ぶのは悔しいじゃないか。

 

 

 

平成16年8月14日(土)
親父の病気以来、永年のお盆の慣習から遠ざかっている。

通常の土曜日よりやや早くに出発する。2時ごろ到着。
相変わらず眠り続ける親父。
看護婦さんによれば午前中清拭の折りには目を開けていたそうだが。
とにかく痰が多い。気切部から溢れてくる。Yガーゼを3回も取り替えた。
昨日もそうだったが、今日も呼吸器がはずれた。
口腔消毒の後アラームが鳴り出し、回路がはずれていることに気がつく。
昨日は西条医師にも呼吸器がはずれていたことを指摘、厳重に注意したばかり。
血圧が低い。上が66、下は45という数字に、昇圧剤が入る。
それでもようやく74まで上がっただけ。更に量を増やす。
このことがあって、帰るに帰られず結局7時半まで病院に。
7時過ぎの計測でようやく上98、下65まで戻る。これでホッとして帰路へ。
帰り地元ショッピングセンターのレストランで食事。3人で鰻重を食べる。
親父がウナギを最後に口にしたのはいつだったか・・・。

 

 

 

平成16年8月15日(日)
いよいよ夏休みも最終。家族で病院へ行けるのも今日で最後か。
来週の土曜日はいったいどうなっているのか。考えてもしょうがないが・・・。
親父益々状態悪く、今日は目を開けることもほとんどなかった。
血圧今朝より再び70台となり昇圧剤を使用。
無くなると補充、無くなると補充という形で一日中使用す。
もはや薬無くては血圧が維持できないのか。
日中の計測で85-50。酸素飽和度96。脈拍90。体温36度4分。
昼の胃婁中に口からリキッドが溢れ出ていることに気づく。吐いたらしい。
過去一度もなかったこと。腹が張っているという看護婦の指摘で関医師がレントゲンを指示。
結果便が詰まっているとのことで、浣腸を施す。
昇圧剤量再び上げ11に。昨晩3からスタートしたものがここまでアップ。
次第に反応鈍くなってくる。関医師というのはたぶんアルバイトの医師か。若い、医者。
日曜ということで医者がいない。
このまま血圧が低下し続け、心臓停止した場合に、心臓マッサージについて聞かれる。
電気ショックを施すかどうか・・・、やってくれ。
アルブミンの補給について・・・、輸血して欲しい。一昨日西条医師と話しはしているのに。
書類を読めよな、関センセイ。
結局アルブミンは在庫あったため即投与。
12時に病院について7時間。午後7時一応面会時間の終了とともに帰路に着く。
これが今生の別れとなるかも。

 

 

 

平成16年8月15日(日)No.2
もはや“死に体”の親父に延命措置が必要かどうか。
何度か自問自答した結果、あらゆる可能な延命措置を施すことに決意した。
医学的に見れば「無駄」な行為であろうと、それで少しでも命が延びるなら、是非やって貰おう。
もともと人工呼吸器という選択からして延命なのだ。
が、呼吸器を付けての生活にもそれなりに楽しみはあったはず。
延命と、言い捨てることは出来ないはずなのだ。
親父は一度も弱音を吐いたことがない。
以前訪問看護の遠井さんから聞いた話でも、寝たきりの病人には弱音を吐く人が多くいるという。
曰く、もう死にたい。もうやめにしたい。生きている甲斐がない。等々。
親父は一度もそういうことを言ったことがない。
元来物事を深く考えないたちなのか、それが幸いして長い闘病生活を送ることが出来たのだろう。
もう生きたくないという親父の意思があったのなら、
これ以上の延命措置は苦痛を増すばかりだから止めましょう、そうも言ったかも知れない。
が、恐らくは今でも死にたいと思っているとは思えないのだ。
人工呼吸器を付けてもう3年弱。それ以前の闘病を含めると4年以上になるはず。
ALSなる得体の知れない病魔に立ち向かって4年、よく戦ってきたと思う。
KK病院入院時、病気と闘うんだと叱咤激励したことがある。その通りよく戦ってきた。
はなから勝てる相手ではなかったが、行けるところまで戦うしかなかったのだ。
そして今いよいよダウン寸前の状態である。戦い疲れてフラフラなのだ。
だが、ここで私がタオルを投げ入れるわけにはいかないではないか。
私が勝手に試合を止めてしまうことは出来ないのだ。
だから、あらゆる手助けをして、そして力尽きるなら諦めよう。
その時は長い間ご苦労様でしたと言ってやろう。
そう考えている。

 

 

 

平成16年8月17日(火)
4時前、会社を出てNT病院へ向かう。
昨日お袋が見舞った折りに看護婦に時間外の付添は禁止だと怒られたそうだ。
息子が婦長さんに了解を得たと答えると、婦長は婦長だ、関係ないとの答え。
なんだそれ?そこで、病院へ電話を掛ける。
稲森さんという看護婦長代理がその人だった。決して怒ったわけではないとのこと。
仮にも病棟のトップとおぼしき人から了解を得た以上、それを簡単に否定するのはやはりおかしい。
本当に婦長の言うことが違っていたとしても、これは病院側の問題であって、我々が怒られる筋合いではない。
中で結論を出して貰えばいいことだ。
そして現在の状態で時間外を断られるなど考えられない。
雨がぱらつく中、病院へ。さすがに院内はがらんとしている。
親父はほとんど平らに横になり、足だけが少し上がっている状態だった。昇圧剤も11でずっと継続。
やはり血圧が上がらないものと思われる。
口からあぶくを吹いており、まずは吸引を。鼻毛を切るなどするうちに目を覚ます。
が、焦点は定まっていない。果たして認識できたか。
昼間、リハビリの村上さんと電話で話す。ことここに到って是非親父に声を掛けて貰いたかった。
そのお願いのために電話をする。
が、村上さん、天野さんのお二人で交代に毎日病室へ行ってくれているという。
時間を変えて声を掛けているものの返事はないと。ありがたいこと。
夜勤の井田さんに稲森さんに謝っておいてほしいと伝言。
電話口では少々きつく言い過ぎた、反省。

 

 

 

平成16年8月21日(土)
昼12時頃家を出る。親父は相変わらず眠っているよう。
ただ、今日はずっと目を開けている。もしかしたら覚醒しているのかも知れない。
加羅さんが病室を訪れる。親父に声を掛けてくれる。午前中は村上さんが来てくれたらしい。
天野さんも親父を見に寄ってくれる。ありがたい限り。
午後6時過ぎ、帰宅することに。ショッピングセンターによって寿司屋で夕食。
家でくつろいでいた10時半ころ、NT病院から電話。
親父の容態が急変したとのこと。慌てて車を出す。
ついに来るべき時が来たのか。高速道路をひた走って11時20分病院到着。
病院は正面玄関が開いており普通に6階へ。病棟から連絡があり開けてくれていたらしい。
親父、心拍数が30にまで低下、血圧も下がり危険な状態だったとのこと。
しかし1時間後のこの時は心拍数も130に上がり、血圧も85―60に安定。
酸素流量を増やしたこともあり血中酸素飽和度は99に。
当直医の判断でも一応安定したので帰宅した方がいいとのこと。但し急変はあり得ると。
午前12時15分、親父にばあさんを連れて帰る旨告げて家路に。午前1時帰宅。
さて、寝ていいものかどうか。いつまた呼び出しが来るか分からないのだ。

 

 

 

平成16年8月22日(日)
この療養日記も今日で最後となった。
午前1時一旦帰宅したものの、同5時再びNT病院から電話あり。
再び容態が変わったので、来られるか、とのこと。
半分眠った状態から支度をし、病院へ。
高速道路を140K平均でとばし、5時40分頃病院到着。
すでに一旦心臓が停止したとのこと。電気ショックとマッサージでかろうじて鼓動が戻っていた。
しかし血圧は上が50を切っており、下は計測不能。
もういいだろう。医師に再び心停止時にショックは不要と返答する、あとは自然に任せることに。
心拍はふたたび30、17、15と落ちていく。
身体は冷たく冷え切っており、とても血の通った人とは思えない。
親父には以前よりこう言おうと思っていた言葉、ご苦労様、長い間ご苦労様でした、と伝える。
やがて鼓動はフラットな線を描き、医師の確認。22日午前6時24分臨終。
ALSという神経難病と闘った壮絶な最後であり、戦い抜いた結果であった。
合掌、否、拍手。