闘病日記 平成14年4月〜6月

平成14年4月8日(月)
4時過ぎ、YS訪看遠井さんより電話あり。親父の具合が悪いとのこと。
朝は普通に食事をし、昼パンを半分食べたところで遠井さんの訪問。
その後、遠井さんの帰った後に急に体調が悪くなる。40度近い高熱と悪寒。
お袋の要請でYS訪看の遠井さんに再度来ていただき手当。針尾クリニックの指示で抗生物質の点滴を打つ。ここで、私に電話があったもの。夜になって熱は下がったものの食欲もなく、痰も多い。
結局明け方まで様子を見ながら朝を迎えることになる。

 

 

 

平成14年4月9日(火)曇りのち雨
今日は仕事を休んで看護に。お袋が一人では不安とのことで。
痰の量も多く、呼吸苦しそう。
針尾医師に電話。抗生物質と風邪薬で2,3日で快方に向かうはずとの返事。
11時半、遠井さんに抗生物質を点滴にて入れて貰う。
しかしながら、全く食欲もなく、朝はリンゴジュース100CC、あずきムース半分を食べたのみ。
点滴後もウィダーインゼリー1個を口に入れたのみで、食欲は出てこない。危険ではないのか。
夕方、迷っているところへ、遠井さんから電話。
針尾クリニックへ現状の報告をし、ちょっと危険な気がしますとの助言をしていただいたそう。
針尾医師の計らいでKK病院へ連絡、緊急入院の要請となった。
6時過ぎ、芳山医長より電話あり。入院受入の準備が整ったとのこと。救急車を呼んでKK病院へ向かう。
救急隊員3名でも人工呼吸器装着患者の搬送は難しい。かなり手間取って出発した。
以前病院に通ったと同じコースにてKK病院へ向かう。渋滞の高速道路中央を走行し、30分かからずに到着。
芳山医長の出迎えで、用意された病室へ。12病棟120号室。
気管支炎か肺炎の一歩手前ではとのこと。詳しくは検査待ちだが、吸引と点滴ですっかり落ち着いた風。
芳山医長の診察。手足の力はまだまだ残っている。口と喉の力が弱いとのこと。このままショートステイに入ることに。
もともと4月半ばに17病棟の病室がひとつ空く予定だったのでショートステイの計画だったとのこと。
こちらとしては申し分なし。担当看護婦は水澤さん。

 

 

 

 

平成14年4月10日(水)
朝、おむつなど必要な物を持って由佳里がまず病院へ。追っかけで、自分も病院へ行く。身元引受書を記入。
昨日持って行き忘れた保険証などを掲示する。親父はぐーぐー眠り込んでいた。起こさずに退散。
17病棟へ行く。残念ながらナースセンターはカラ。婦長さんには会えず。が、芳山医長がちょうどおられて会話。
今回エダラボンを再度使っていただけるとのこと。
それも他の病院で実績があったという一日に2回の投与を試してくれるそうだ。
脳梗塞の治療ということで、病院で費用は負担してくれるそうである。これも、こちらの期待していたとおりでうれしい。
もちろん実費でエダラボンを再投与できないかお願いするつもりだったのだ。
とにかくQOLの高い状態で家にいさせたい。これでないとお袋のQOLも維持できないから。
報告のためにビデオの撮影を要請される。プライバシーは当然保護されるということで、こちらには異存無し。
再び期待が…。

 

 

平成14年4月21日(日)雨
午後1時前、家族3人でKK病院へ出発。
昨日はサボらせてもらったので、今日は一人で行くつもりが、車で行くなら一緒に行くということで。
インターまで少々混雑していたものの、後は比較的すんなりと行く。KKへの道は3ヶ月ぶり。
先週金曜日に12病棟より元の17病棟301号室に移動。今回の担当看護婦は水野さん。
病室では、親父はいまだ呼吸器をはずせない状態が続く。薬2本でも効かなければ、もはや打つ手無し。
神にも祈りたい気分。また、本人の気持ちも大きく作用するとの医長のお話。
親父にもそのことを伝えて、励ますが、どこまで理解しているのか。元のご担当の門田さんが挨拶に来る。
看護婦の林さんに散髪を頼んでもうおうとするが、親父断る。
ベッドに寝たままでも散髪は出来るとのことだが、来週からリハビリが始まるので、時間が分からないとか、言う。
何か散髪して貰うことに不安があるようだ。
3時頃帰ろうとするが、何か食べたいと言う。ベッドを起こして売店で買ってきた羊羹とジュースをあげる。
食べ終わると、夕食用に持ってきたウナギを試食。食べ方は遅いものの、まだ自力で充分食べられることがうれしい。
他の患者さんに比較してもこの病棟では良好な部類か。相変わらず厳しい入院患者が多い。
4時前に病院を出る。昨年より病院の帰りに何度も聞いていたラジオ番組がまだ続いていた。

 

 

平成14年5月1日(水)
芳山先生を退院の相談に訪ねる。昨日電話をいただき、会社の休みだった今日の午前中とさせて貰った。
母は友人と神社詣で。外出も再びままならなくなり、最後のチャンスということで出かけさせた。
連休明けの退院を決める。今回は自家用ではやはり危険なため搬送車を手配することに。
A寝台自動車という会社のを予約する。病院を8日の午前10時半に出発の予定。
病状のめざましい快復は今回はやはり見られず、手足は若干衰えが見えるとのこと。
呼吸については、離脱訓練があまり出来て無く、あまりはかばかしくなさそうだ。
食欲は旺盛で自分で食べることが出来る。これだけが救い。
7月か8月のショートステイ予約をお願いする。また、病状の進行に伴い、再々度のエダラボン投与をお願い。
新規で症状が現れた部位には効果がある模様で、旧来からの衰弱部位にはあまり改善は見られないようだとのこと。
結局昼前には病院を出る。

 

 

 

平成14年5月5日(日)快晴
家族で見舞にKK病院へ。
昼前に到着。親父ベットに寝ているが、すぐ起き出して車椅子に。座ってじっとしているのが苦痛だとか。
どこが痛い。きついということではないらしい。ホッとする。
昼食は相変わらず食欲旺盛。迫田さん、菅原さん、門田さんらが当番だった。
昼食後、離脱訓練。親父の話では、最高2時間外していられたとのこと。これはうれしい。
1時45分に呼吸器を外して、車椅子で散歩に。売店へ寄って、甘納豆を買う。そのまま駐車場のある外へ。
木陰でしばらく休息。血中酸素飽和度は95,6あたりを維持。立ち上がって歩いてみせる。
1月には、自分で車椅子を押して病院玄関まで歩いて出てきていたことがあったが、
さすがに今回はそうまでは行かないようだ。でも、これだけ、呼吸が戻ってくれたのはうれしい限り。
これなら、自宅でも気持ちよく過ごせるのではないか。
結局病院の裏手の方まで散策して、病室には30分以上過ぎてから戻る。
その後も外したままにして、3時までの1時間15分を過ごした。最後はかなり苦しそうだったが、血中酸素飽和度はそれでも96,7まであり、この辺の苦しさは呼吸器になれてしまったためなのか、
あるいは脈拍の上昇によるものかも知れない。
退院に備えて、最低限のものを残して持ち帰ることに。
8日朝に迎えに来ることを言い残して病院を出る。
いよいよ、帰ってくる。
お袋がどうも不安感にいっぱいになっているようで、そっちが問題。
共倒れは避けなければ。

 

 

 

平成14年5月8日(水)
退院。
9時前にKK病院へ。
親父の髭を剃り、病室の荷物をまとめる。
芳山先生より、針尾先生・遠井さんへの報告書を貰う。お薬は14日分。
呼吸器よりの離脱訓練をもう少し続ければ、もっと良くなると思うとのこと。
病院への支払いは0円でした。特定疾患重症認定のおかげということです。
1ヶ月間の入院で必要な費用は0円はうれしいが、それだけ重い病気だという意味なんでしょう
10時、A寝台自動車のドライバー2名が到着。やけに仰々しい寝台。
車椅子で出ようと思うが、それに乗っていくとのこと。親父何を考えているのか。
結局重症患者並みの体制で、患者搬送車へ。
森山婦長見送りに玄関まで来てくださる。迫田さんが明けでお帰りに。一緒に見送って頂く。うれしいね。
手を振ってお別れ。搬送車は一般道を自宅へ。
FC社石田さんも同行。
11時半、自宅到着。搬送費は3万6千円也。高いのか、安いのか。
KK病院17病棟はお得意さんらしい。
呼吸器のセッティング。
1時半、遠井さんがお見えになる。リハビリを頼む件、依頼。
その後、離脱訓練やらをしつつ、6時過ぎ夕食。9時就寝。
今はぐっすり寝ています。
でも、夜中に起きるでしょうね。お袋の体力が持つかどうか、そこが大問題。

 

 

 

平成14年5月22日(水)
カニューレ交換。
針尾医師の久々の往診となる。1ヶ月半ぶり。
最近の病状については、書面にて連絡。
今日は、併せてリハビリの宮本さんも来宅。来週金曜日からとなる。
リハビリについては遠井さんのご紹介でII病院の宮本さんと面会、話を詰めたもの。
本来II病院の医師が往診し、その指示の元でリハビリが動くとのことだったが特例を認めて頂いた。
II病院の医師とも挨拶をする。
遠井さんから誤嚥の指摘有り。
引いた痰から食べ物のかけらが出てきたとのこと。
先日もあり、これは誤嚥のためであり、イコール嚥下力の低下を指す。針尾医師もこれには懸念を示す。

 

というわけで、仕事で立ち会っていない私に夜遠井さんから電話があった。
誤嚥については、今後栄養の経口摂取が出来なくなる可能性を示唆している。胃婁手術をし、栄養は流動食に。
食べることだけが楽しみの親父にとって、食べられなくなることは何を意味するのだろう。
考えただけで、絶望感に襲われる。
いずれにせよ、針尾医師と直接話をした上で、芳山医長に相談するしかない。
発病後(もっとも、どこをして発病とするのか。呂律が回らなくなった時を発病とするなら、すでに2年が経過し、身体の衰えがひどくなった時点からも1年が経過する。)病気は止まることなく進行していくようだ。
ほんの数年進行が止まってくれれば、充分なのに。まだ、病気は進むのか。
せっかく食べられるこの時間が重要だ。時間よとまれ。

 

 

 

平成14年6月2日
やはり誤嚥のせいか、夜息が苦しいと言い出す。
体温37.4度。何度吸引しても楽にならず。血中酸素飽和度は88。
人工呼吸器のエラーメッセージは「DISC/SENCE」の表示がされるがアラームは鳴り出さない。
回路を交換する。やや落ち着いた様子で、血中酸素飽和度は93。
食事もミキサーに切り替え。カレーの煮付けもミキサーとなる。

 

 

 

平成14年6月5日
午後4時KK病院神経内科外来へ。一昨日電話で芳山医長にアポ。
此度の誤嚥について報告とアドバイスをいただく。
トロミのあるものや、魚の煮こごりなどツルリとしたものを与えると良いとのこと。
こちらの意思を尊重してくださり、カフエアーを少々多めにすることや、
カフ脇からの吸引を充分にして食べ物カスを吸い取ってしまうことに注意すれば、
ミキサー食でなくてもいいと言われる。
その上で、誤嚥性肺炎を起こしたらまた病院へかつぎ込んでくださいとも。
誤嚥性肺炎の1度や2度で死ぬようなこともないと言ってくださいました。
こういう病気で食べることくらいしか楽しみもなく、幸いまだ食べられるんだから、
しっかり食べたらいいということです。もちろん誤嚥のリスクはありますが、
それでもいきなり全てミキサーだとか胃婁などというのは考えなくていいんじゃないか。
肺炎は病院で治します。うれしいアドバイスだった。
再び入院の後、もう厳しいんじゃないかと判断したら、親父にも納得させて胃婁を設置することになる。
胃婁の方が経管栄養より扱いは楽であり、全く口から食べられなくなると言うことではないらしい。
半々というかたちで栄養の摂取を分割することが出来る。
ラジカットの再々度の投与は試す価値があるでしょうとのことで、
偶然手元にあったラジカットと生理食塩水・点滴セットを持ち帰ることになった。
遠井さんへまたお願いすることになる。

 

親父が妙な人形の絵を描いて、お袋に説明した。
寝てると鉢巻きをした人が5人ほどベッドに集まって来たという。
ベッドの下に塩を撒けと言う。
この部屋は建てるときに塩と酒で清めてあるから大丈夫だと説明して説得。
こういう夢を見るというのは、どういうことだろうか。
やはり気弱になっているのかもしれない。
死を考え始めたのかも知れない。なら、戦え!

 

 

 

平成14年6月16日
父の日。もっとも普段から何もしたことはなかったが…。
が、家族が一緒にいられることが如何に幸せなことか、
健康でいられることが如何に素晴らしいか、それを痛感している。
皆健康で暮らしたときは、そんなこと考えたこともなかったが。
幸い今のところ誤嚥性肺炎の心配はない様子。あれから熱も出していない。
食欲はあるものの、やはり食が細くなったようだ。一段と痩せた気がする。
手足の筋力の衰えは激しく、歩くこともベッドに起きあがることもやっとという感じ。
呼吸器を外す訓練をしてみるが、芳しくない。
酸素飽和度97まであったものが、寝たままの状態で呼吸器を外すとわずか1分で89まで急降下する。
訓練中止。やはりエダラボンはもう効かないのか。今月中が見極めの限度。
お袋の足腰の痛みもひどく、買い物に行くと疲れ切って帰ってくる。
普段歩かなくなった反動か、それとも年による衰えか。
親父に見切りを付けなくてはならない日も遠くないような気がする。
なんとかALSの進行が止まってくれないものなのか。
神に祈るしかないのか。

 

 

 

平成14年6月30日
6月も本日で終わる。エダラボンの顕著な効果はみられない。
先日電話で芳山医長と話すも、目に見える改善は難しいかも知れないが、
これ以上病気が進まないようにするためには効果があると思うとのことだった。
が、手足の衰えは目に見える。車椅子から立ち上がることがやっとであり、
歩き方もフラフラという感じだ。
口元の筋力も弱ってきているようで、だらだらと食べ物をこぼすことが多い。
過日より、食事は基本的にミキサーとした。
本人がミキサーでと書いたわけだが、たぶん全てそうしろというわけではなかっただろう。
しかし、誤嚥の問題や喉の力の衰弱を考えるとミキサーの方が安心は出来る。
また、様々な食材が使えるメリットもある。
食後に息が苦しくなる傾向にあり、芳山医長も分からないとのこと。
ただ仮説としては胃腸の蠕動運動により横隔膜の動きが益々少なくなるのではないか、とのこと。
あるいは心筋梗塞など心臓の合併症かもしれない。
昨日来青い痰が多く、匂いも酷い。